第26回 『対話』によるコロナ連携

第26回 『対話』によるコロナ連携

はじめに:
コロナ禍における医療崩壊により、日本の医療制度の根本問題が露呈されてきた。

しかしいまは、制度を論じるだけではなく、目前の危機に対し、現場(=地域医療連携)が柔軟に取り組み、医療崩壊を回避することが重要と思う。

立場の違う組織や個人が「対話」により「共通了解」を持つことができれば、コロナの地域連携も、その効果が高まるだろう。

八王子市では、多くのステークホルダーが集まり、全36回のWEB会議を実施してきた。結果、ある程度のコンセンサスが確立された。そしていま冬になり、コロナとの「共生」が本格的に始まった。「対話」によるコロナ連携も、その真価が問われるメインのステージに入ってきたものと考える。

「みんなでみるしかない・・・」

その言葉が、私の頭から離れない。

都内の多くの介護施設では、入所者さんがコロナに感染しても入院できる病院はほぼ無く、その施設でみてもらっているのが実情である。一般の病院に入院しているコロナ患者さんも、コロナ受入病院への転院ができない状況のまま、多くはそこに留まっている。

思えば、毎年、コロナに比べて、遥かに多い高齢者の方がインフルエンザで亡くなってきた。若い世代にとってインフルエンザは治る病気であるが、高齢者にとっては、人生の終末期の最後の幕を閉じる大きな要因となってきた。

ではなぜインフルエンザはどの病院でもみてもらえたのに、コロナはみてもらえないのか?それは、医療をとりまく構造的あるいは政治的な問題かもしれないし、偏見や差別を煽る過剰報道の弊害かもしれない。いずれにせよ、日本の医療体制の問題点が、ここにきてより明らかになったのだと思う。

それぞれの事情がある

日本でのコロナによる医療崩壊の第一の原因は、民間病院の多さにあると思う。これら民間病院がコロナを「診る/診ない」を任意で選択でき、しかもほとんどの民間病院が「診ない」を選んでいる現状。ここに問題の本質があると、以前からこのブログでも書いてきた。(参照:ブログ第4回

しかし、各病院には、守るものがあり、その個々の「決断」には紛れもない「合理性」がある。つまり、どの病院も、利益率1%前後といわれる日本の診療報酬のもと、どうにか黒字を捻出するために、常に病院をフル稼働させなければならないのである。看護師の欠員が1名でも出ると回らないという、ギリギリの状況である。そんな中、コロナによる風評被害や雇用者の離職が起これば、あっという間に経営が立ち行かなくなる。(参照:ブログ第22回

しかし、理由はどうあれ、また好む好まざるに関わらず、既に「みんなでみるしかない」レベルまでコロナが蔓延している。であれば、地域でまとまって診療効率を上げましょうよ、みんなで乗り越えましょうよ、というのが私の考えである。(参照:ブログ第2回

いま何ができるか、対話を重ねる以外にない

軍国主義のように、「右向け右」ができないのが日本の良いところなのであれば、より一層、民主主義を追求すれば良いのではないか。つまり、相手の立場になって「対話」することで、お互いが納得できるような、何らかの「共通了解」が得られるはずである。時間がかかったとしても、対話の中から「方向性」を模索する以外、我々には道がないのではないか。(※参考文献1)。

私自身は、病院長の理解のもと、感染症専門医(平井先生)や、地域の多くの有志の皆さまと一緒に、日々、その可能性を模索してきた。具体的には、私たちはこれまで計35回の「covid-19対応地域連携WEB会議」を実施した。この会議では、コロナを受け入れる病院だけでなく、多くのコロナを受け入れない病院も参加し、互いに「できること」と「できないこと」を共有してきた。

どの病院にも一致する「地域貢献への想い」を背景に、大学病院の専門家から提供される最新のエビデンスに基づいて、「いま何ができるか」について議論を重ねてきた。「10 daysルール」すなわちコロナ感染10日目以降の患者さん(周囲にうつりにくい)を地域の病院が引き受ける政策も、対話の成果であった。その後も対話は継続され、地域医療はその方向性を模索し続けている。

何のための感染対策か

人間には、生きる上で絶対に必要なコミュニケーションがある。家族や恋人との時間、そして子供をスクスクと育てる環境は、感染予防に相反する。そこへきてコロナは8割が軽症か無症状の感染症である。しかも、たとえ有症状であっても、症状が発現する前からうつるのである。したがってコロナ対策は、感染をゼロにするものではなく、コロナと共に充実した人生を生きるための最善策なのだと思う。

私どもの救命救急センターの医師たちは、毎日コロナ患者さんを診ているが、誰一人、私生活を犠牲にしていない。要するに、適切な感染対策をすれば、業務上の感染は皆無であり、心配なく、これまで通りの充実した生活を過ごすことができるのである。 しかも、我々はエビデンスに基づき、不要な装備はその一切を切り捨て(宇宙服などは着ていない)、原則はマスクと手指衛生のみ(適宜、ガウンとアイシールドを追加)で業務を行っている。

このような感染対策を、大学病院の専門家から学び、あくまで「実践」の中で自信をつけること。「診る」とか「診ない」とかではなく、どの病院のどの職員も、逃げることができない感染症なのだから、コロナと共生できる「自信」を地域みんなで共有すること。結果、一日でも早く、全ての医療機関が安定した日々を取り戻すこと。それが市民のために一番重要なことだと思う。

新しいストーリーを地域で描く

今、コロナによって、古くから描かれてきた医療体制のストーリーが脆くも崩壊しつつある。そのなかで、我々医療者は、「ならばこうしよう」という新しい役割分担と協力体制を、改めて構築するよう求められている。しかしそれは決して容易ではなく、まるで、健康だった身体が急に動かなくなったような、個人が「病気を患った」ときに感じる苦しみに似ているのだと思う。受け入れ難きを受け入れ、残った力で未来を描きなおしている状況なのかもしれない。

それでも、できるかぎり俯瞰的な視野で、地域全体で元気に復活するストーリーを描き上げるためには、まずは互いの病院の実情を正しく知ることが重要であろう。そのためには「対話」が不可欠であり、対話の先に、やっと「診療効率の改善」が見えてくるのだと思う。その議論の場として「covid-19対応地域連携WEB会議」が有効であれば良いと思う。

やや大袈裟かもしれないが、「地域における診療効率の改善」が国家の危機を救い、さらに世界に発信できるようなイノベーションを生み出す。そのリーダーシップを大学付属病院がとる。そういった思いが、私のそもそもの原動力である。過去ブログにも書かせていただいた。以上の内容を全部あわせて「みんなでみるしかない」と思っている。

 

※参考文献:
1.「哲学は対話する」、西 研、2019.10.15、筑摩選書